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蘇我氏隆盛

毎度、みっちゃんです。

5世紀後半、大王の国家は確率されると同時にはやくも国の内外で難局に直面し始めた。

朝鮮三国の勢力争いが激化し、高句麗は百済をせめて首都を奪った。
新羅も又、高句麗の南下に脅威をうけた。
百済と新羅は、高句麗を防ぐため、それぞれ南下して任那地方の蚕食をはかった。
任那を自己の勢力範囲とみなしていた倭国の朝廷には、あくまで百済・新羅と抗争しようとするものと妥協派の対立が生じた。

朝廷は百済に対しては譲歩したが、新羅に対しては527年近江臣毛野を将として大軍を送り新羅と戦うこととした。

しかし、このような侵略戦争は大王や中央貴族のみの利害に関わることで民衆と地方豪族は、兵士にとられ、又は兵糧その他軍需の負担に苦しむだけである。

『日本書紀』によると、479年雄略天皇が死んだ時、新羅遠征軍が岡山の吉備を通っていたが、その中の蝦夷人の兵士500人が叛乱を起こしたが、丹波国浦掛港で全滅したが、民衆や地方豪族に支持されていたのでここまで戦えたのだろう。

その半世紀後、527年の大遠征が企てられたが、かねてから中央に不満を持っていた筑紫の国造磐井は、北九州の諸豪族と民衆に支持されて叛乱を起こし、遠征軍をさえぎった。その勢力は極めて強く、物部麁鹿火自らが、その討伐のために出陣せねばならなかった。
磐井らは1年3ヶ月も抗戦したが、ついに敗れた。


磐井の乱の平定は朝廷の地方豪族に対する支配力を高めた。
朝廷の直轄領が拡大するにつれ財政機構を握る蘇我氏の勢力がのびた。
蘇我氏は今までの氏族的擬制でなく、新しい官僚制的な人民支配方向に歩もうとしたため保守派の大伴氏や物部氏との対立を引き起こした。

革新派の蘇我稲目と物部尾輿の争いは仏教を受け入れることか否かで始まったが、仏教を受け入れるということはそれまでの氏姓制度の神々を超越した神を受け入れることである。

蘇我氏は585年稲目の外孫が皇位につき(用明天皇)、仏教の興隆をはかった。用明天皇の死後、皇位をめぐって、蘇我馬子と物部守屋が対立して戦闘となり、馬子は用明の子厩戸王子(後の聖徳太子)と共に、守屋とその一族を滅ぼし、自分のおいを立てて天皇とした。(崇峻天皇)

もはや宮中には、馬子に歯向かうものは一人もいなくなった。
崇峻天皇は馬子の横暴をにくむと、馬子は怒って部下の役人に天皇を殺させた。

そのあとには、一族の皇女を天皇に立てて(推古天皇)、聖徳太子をその摂政とした。

これより馬子と聖徳太子の独裁政治が行われる。

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