FC2ブログ

Entries

聖徳太子

毎度、みっちゃんです。

さて、昨日の続きです。

聖徳太子の建立

①四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている[1]。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった[2]。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立している。

②法隆寺(ほうりゅうじ)、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院で聖徳宗の総本山である。聖徳太子ゆかりの寺院であり、世界最古の木造建築である西院伽藍をはじめ、多くの文化財を伝える。別名を斑鳩寺(いかるがでら)を創建した。

③法興寺 聖徳太子は、596年、まずは国内初の本格的仏教寺院の法興寺(現飛鳥寺)を完成させました。
五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院でした。

四天王寺は我が家から車で10分ほどのところにあります。

有名な亀の池があり一昨年確認に行きましたが太古の昔よりのニホンイシガメではなく外来種のミシシッピーアカミミガメがこちらにも進出しておりました><

こちらはうちの愛カメサンズ(五右衛門、イッシー、亀吉)です。
画像


蘇我馬子との関係、四天王寺建立の逸話は『日本書紀』等によるものである。


聖徳太子は橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。とのことです。

蘇我馬子と聖徳太子の施政は財政機関中心の官僚制的機構でありそれまでの古い伴造部民制を払拭した。
すなわち官庁の長官とそこの労務者群という形である。

馬子と太子は、この様に権力の物質的基礎を再編強化し、官僚制的機構をはじめるとともに、仏教の奨励、官位12階の制定、憲法17条の軍二、天皇記・国記などの歴史の編纂等、天皇を頂点とする中央集権国家の理念の創造に着手した。

仏教の奨励は、「氏」を超えた新しい進行で帰属の思想的統一を図るとともに、中央地方の氏姓貴族及び民衆に、朝廷の威力を強烈に印象付けるこちに、その政治的意義があった。

当時、皇居でさえも、板葺き、かやぶきの粗末な建物であり、民衆は、床さえない掘立小屋に住まいしていた時代に、想像を絶した大建築で支配者の権威と、そこに祭られている新しい「神」に恐れおののくばかりであった。

また、この時代に初めて中国との対等の国交の努力がなされた。
607年、小野妹子が中国の隋王朝に送られた。
そのもたらした国書は、中国の『隋書』によれば、「日いづるところの天子、書を日没するところの天子に致す、恙なきや」とあったという。

翌年、答礼使と共に妹子は帰国するがその施設が帰国の際に妹子も同行した。
その時の国書は「東天皇、敬て、西皇帝に白す」という句で始まっていた。

大王を天皇と称したことが、文献に見えるのはこの時が最初であるらしい。

この二回の遣隋使に従って、多くの僧侶、学生が留学した。彼らは皆、渡来人系であり、その中には、高向漢人玄理・南淵漢人請安のように、のちの大化の改新に重要な役割を担うものもいた。

隋との使者の往来は、日本で意図したように対等の国交を実現したものではなく、隋の対日国書には日本を朝貢服属国扱いにしていた。

ただし、倭の五王が宋に対したのと比べれば、この国交は、日本朝廷の自主独立の意識を示していた点で着目される。

今日はこれにて終了です。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://mituo23.blog.fc2.com/tb.php/368-6a17dcfb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)