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大化の改新

毎度、みっちゃんです。
春の選抜もベスト8から準決勝組が決まりつつあります。

大阪桐蔭は残念でしたが、飲み友達の弟さんの子供さんが敦賀気比のキャプテンで今日も7回に2ランHRを放ってくれたようです。
若いパワーが満開の高校野球はいいものです。

さて、今、うちの近くでは桜は満開のようです。
これは前の聖家族の家の桜です。
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公園の裏にポツポツ咲いている桜です。慎ましいですね。
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公園内のバーベキュー会場では人が溢れておりました。
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聖徳太子と馬子の施政には、先に表したように新しい国家形態をめざすものがあったとはいえ、彼らは大寺院の造影と無益な戦争に人民を駆使し、国力を傾けたので、彼の6世紀末の崇仏か排仏かの政争の背景となった社会不安、生産の荒廃、人民の困苦と、犯行はいよいよ激しくなった。

聖徳太子自身、路ばたに餓死していく人民を見ているが、彼はそこで仏教的な悲哀を感ずるだけであった。
そして太子は晩年には政治に興味を失い、ますます仏教にうちこんだ。

彼は「世間―現実世界―は虚仮である。ただ仏のみが真実である」と妃にもらしたという。
そして622年に死んだ。4年後には馬子も死んだ。
馬子の死んだ626年の春から秋にかけて、長雨が続き、大凶作・大飢饉が起こった。

老人は草の根をくわえて路ばたに倒れ、赤ん坊は母の乳房をふくんで母娘諸共死に、強盗・窃盗がいたるところに横行した。

644年島国の富士川のほとりで、「常世虫」という虫を祀ると、富と長寿が得られると、人民をまどわすものが現れた。人民はそれを信じて、われ先にと財を寄進して虫を祭り、酒に良い、歌い、舞うの大騒ぎがおこった。社会の矛盾がうっ積し、人民が方向を失うとこんなことがよくおこる。

部民の逃亡その他の形の犯行も、盛んになった。

この生産の後輩と社会不安の根本原因は、五世紀以来の屯倉・田荘・部民制という、天皇や貴族の人民支配の体制そのものにあった。

蘇我馬子の後を継いだ蘇我蝦夷とその子入鹿は、なおその領地の拡張をはかり、天皇や貴族たちの部民をも挑発し、みずから天皇を気取った。

蘇我氏反対の諸勢力は、中大兄皇子と中臣鎌子(のちの藤原鎌足)を中心に結束し、蘇我氏の打倒を図った。

これまでのように宮廷の勢争いで終わるわけにはいかない訳は全社会体制の危機があったから、蘇我氏打倒の暁には、これまでの天皇・皇族・貴族らの部民所有そのものを廃止しなければ、もやは人民を掌握することは困難になり、部民所有者たちの争いは絶えず、全支配階級の共倒れになるだろうと考えられた。

では、どのような体制を作るか?

その構想を立てるのに、高向玄理や南淵請安は、大いに役立った。

中国で、唐が隋を滅ぼし、律令を制定し、法と官僚制によって大帝国を統括し、また新羅も、唐に習って朝鮮統一に乗り出しているのを,実地に見聞してきたので「法式備定の大唐国」こそ、新国家の模範であるとした。

645ねん6月、クーデターは決行された。
入鹿を大極殿に殺した。蝦夷はその邸に火をつけ、天皇記・国記等をも焼き、自らも焼け死んだ。

中大兄皇子らは、直ちに、蘇我氏が立てていた皇極天皇を退位させー天皇廃位のはじまりー孝徳天皇をたて、中大兄皇子(後の天智天皇)はその皇太子となり、中臣鎌子が、左大臣・右大臣と共に新設された内臣となって、二人で全権を握った。

ついで専制君主性にならい、はじめて年号を定めて大化元年とした。

本日これにて終了です。

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こちらはうちのメダカではございません。
先日、花博会場で開催された春のJMA関西支部さんの展示メダカです。

本日もご覧いただきましてありがとうございました。

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