FC2ブログ

Entries

出雲大社と伊勢神宮

毎度、みっちゃんです。

伊勢神宮と出雲大社はどの時期に作られたのか調べてみました。

伊勢神宮は内宮が10代崇神天皇の時期で、外宮が21代雄略天皇の時代。

出雲大社は神代の時代のようです。

我が家の近くに山坂神社があるのでそちらも調べてみました。
s-image155.jpg

山阪明神または田辺神社とも、いわれていました。 
田辺氏は、元来、西国から移動した渡来系氏族で、
現在の柏原市に拠点を持ち大いに栄えた一族であり、
その分家がこの地に移住して、自らの祖先神を祀ったとされます。

この地名・田辺も田辺氏に由来するとされています。

神社創建の時期は不明ですが、主祭神は
天穂日命(アマノホヒノミコト)(※1)で、
野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)(※2)も祀っています。

田辺氏と同系の土師氏の祖先神が野見宿禰命で、
天穂日尊の子孫とされていることに因んでいるとも思われます。

三代実録(※3)の「清和帝貞観(ジョウガン)4年(862)8月11日条
田辺西神、田辺東神に従五位を授けた」ことが記録されていおり、
田辺西神は当社を、東神は中井神社を示すものとされています。

元禄16年(1703)の検地帳によれば、境内地は約30,000㎡にも及び、
神社の本殿は前方後円墳の後円部に創建されているとみられています。 

現場をみると、前方部が西側の遊園地に当たる東西方向の前方後円墳に
見えてきますが、埴輪や葺石という当時の墓制に特有な付属物が
出土していないので、何とも言えません。 

土師氏が弓部の十六人を率い神功皇后に従い三韓に渡り偉功があり、
凱旋後に摂津住吉神社創立と共に、この地に邸宅を賜り、
梅園惟朝(ウメゾノコレトモ)と称しました。
住吉松葉大記によると、大海(オオワタズミ)、大依羅(オオヨサミ)、
開口(アグチ)、座摩(イカスリ)、生国魂(イククニタマ)の末社群の
上位に位置されたので、当社が住吉大社により、
大変重視されていたと考えられます。

住吉大社の神馬の飼育も田辺氏に任されていた理由もうなずけます。
当社の祭儀もこの頃より梅園氏によって行なわれ、
その同族にして配下の田辺宮主即ち禰宜長ならびに舎人よりなる
宮座によって奉仕されたのであります。
九月朔日の例祭には、当社および田辺東ノ神(中井神社)の
祭儀には梅園氏が親しく奉仕し、ことに禰宜長以下の宮座は当社に
奉仕すると共に、住吉神社の神馬を飼養し日々住吉神社へ曳くを
例とするようになり、当社の宮座は住吉神社との間に古くより
特殊な交渉があったものと考えられます。

※1 天穂日命
古事記の名称(天之菩卑能命)から判断すると、すべてに秀でた神様となります。 
出雲の国譲り(今で言う吸収合併)の交渉役に選ばれて、
九州の本部(高天原)から派遣されたが、大国主命に心服して、
3年間も服命しなかった人。 当世向きの平和主義の神様と言えます。

※2 野見宿禰命
日本書紀の垂仁天皇7年秋7月条に書かれている人で、
当麻蹶速(タイマノケハヤ)が相手の生死を問わず荒っぽい相撲振りを
誇示したので、天皇が全国から対向者を募り、出雲から野見宿弥が
召喚されて対戦し、蹶速を蹴り殺してしまう。 
野見宿弥は褒美として当麻蹶速の土地を戴き、当麻に留まる。 
御陵建設等の技術集団である土師氏は、彼を始祖としている。 
菅原道真も土師氏の末裔です。

※3 日本三代実録
清和、陽成、光孝の3代天皇の時期に関する国史書です。
天安2年(858)8月から仁和3年(887)8月までの30年間を記録しています。
編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平で、
901年に撰上されたが、時すでに律令制度が崩壊し、
天皇家にとって懐古的な歴史書となった、六国史の最後の国史書です。

土師氏(はじし)は古代の氏族。

天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。古墳を作ったり葬送儀礼にも携わった。
本姓    土師連
家祖    野見宿禰
種別    神別 (天孫)
出身地   出雲国
主な根拠地 出雲国・吉備国・大和国・河内国志紀郡土師里 (※堺市にも土師(ハゼ)というところあり)・
      山城国
支流・分家 大江朝臣
      菅原朝臣
      秋篠朝臣

天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。古墳を作ったり葬送儀礼にも携わった。

奈良の古代豪族だった土師氏は技術に長じ、4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれ、古墳時代の中期を代表する古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。

奈良、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。道明寺は土師氏の氏寺である。

土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族で、野見宿祢については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材とかかわっていたと言う推定がある。この伝承は、石材を供給する二上山の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆する。

野見宿祢に関する2つ目の伝承として『日本書紀』垂仁32年7月6日条があり、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを天皇に奏上し天皇はこれを非常に喜び、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとある。 当時も技術的には出雲が先進であったことを示唆する。

後に、土師氏は河内国に古墳墓を増産し、隆盛を誇った。

やがて土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていった。

秋篠(あきしの)は、奈良県奈良市にある地名。現行行政地名は秋篠町、秋篠新町(以上住居表示未実施)、秋篠早月町一・二丁目、秋篠三和町(以上住居表示実施済み区域)。かつては大和国添下郡に属しており、平城京の北西端にあった西大寺の北側に広がる地域にあたる。現在の皇室の秋篠宮の宮号の由来の土地でもある。

古くから土師氏ゆかりの土地であったと言われており、延暦元年(782年)に土師安人の姓が宿禰から朝臣に改められた際に「居住地にちなんで」秋篠安人と改名している。この少し前(具体的年代には諸説あり)に秋篠寺が秋篠の南側に建立された。

ちなみに・・・
秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう、1965年(昭和40年)11月30日 - )は、日本の皇族。今上天皇の第二皇子。母は皇后美智子。身位は親王、皇室典範における敬称は殿下。お印は栂。勲等は大勲位菊花大綬章。学位は博士(理学)(総合研究大学院大学・1996年)。皇位継承順位は皇太子徳仁親王に次ぐ第2位。

秋篠宮親王の名の由来は奈良の秋篠寺かららしいですが今上天皇の第三子にお生まれになったところも所以のひとつかもしれません。


本日もお忙し期中お立ち寄りいただきましてありがとうございました。

メダカ飼育始めた頃はヒメダカがどういうわけか飼育できすに20匹★にしてしまいました><

そこで蚊に刺されるのを覚悟の上山坂神社の手洗いの水をペットボトルにくみに行っておりましたが、
神のご加護かそれ以来元気に育ったことを思い起こしましたが、現在は蚊に刺された思い出が深く行ってはおりません。

アルビノ

明日は住吉大社にまつわる話をまとめてみます。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

      



スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://mituo23.blog.fc2.com/tb.php/371-22feb575
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)